昭和44年05月17日 夜の御理解
「何事にも信心になれよ」と仰って下さる。どの様な事でも自分の周辺にある事、起こって来る事その一つひとつを、神様の御都合として頂いていく。御神意として頂いていく。その事を大事にしていかなければならん、どの一言でもいいかげんな事は出来ないと、私思うんですね。今日も私今日は久富先生が休すんでおられましたから、午後から二時間奉仕させてもらいました。その2時間私が奉仕しておる間に次から次と、もうやっぱり私でなからないけんような人達がですね、お参りをして来るですね。
という訳あの福岡の田舎の方から、参って来る娘さんですけど。この人なんかもう私がおらなかったら、親先生を裏まで尋ねて来る様な、元気のある人じゃないですよね。嫁さんまだ十代の娘さんですから。不思議な事で参って来とりましたが、神様の御都合と思いますね。だからどの様な事でも、その一つひとつがやはりその自分の信心の、手掛かりにもなる事だし、同時にそれを大事にしていかなければ、信心が進まないと思います。座ったらすぐでした。
なんか声高こう入って来ますから、あのうちょうど光昭がでしたかね、あの酔っ払いの人が入って来てるんですよね。ほれでここでですねまぁここであのう、まぁいろいろもう言葉汚のう言うてまぁ言よりました。名前を聞いたら西郷の方です、久保山なんとかとこう言うんです。話を聞きよったとこで清原さん方の隣だそうですよね。それがもう若くして奥さんを亡くして、そしてその子供四人を抱えて、自分はもうこのう酒の中毒でから、ずうっと飲んどらにゃでけんので。
このごろはどこちゃなしに酔うて入っては、酒を飲ませろと言う訳なんです。ここへ来てもその焼酎を飲ましてくれとか、何かというてから裏にやりましょう言よりましたがですね。私は驚きました事は、一番始めに来てここにどんと座ってから、言う事はどう言う事かというとね。こういうことを言うんですよ。あの「世の中では知らぬが仏と言うが、どげなこつか」と、こういうとですよ私はもうびっくりしました。なぜって今朝の御理解だったからですよ。
だけんその人にいい酔うとるから分かるか、分からんか知らんかけど言いました。「一遍あんた素面できなさいって。あんたが今言うた事はね、私が今朝からお話しした事じゃった。「どげな事かちから」言うんですよ。それでまぁその久保山さんのというのが西郷だと言う事が分かったので、その末永さんがすぐ電話かけたらしいですから。千代田さんがその迎えに来てくださいましてね、まぁ帰ってもらったんですけど。そのただ事じゃないと思うですねぇ。
それがそのう例えば酔っ払って言うておる。そのう言葉汚のう言うておる事がですね。もう私はなんか全部その神様が、私に言いよんなさるような感じがするとですよ。それでもう本当にあのうそのような事でも大事に、しかも私の信心の手掛かりになっとりますね。もうちょうど下がりましたら、事務所へ手紙速達の葉書が来とりますもん。はぁそん私に見せもせんなと言うてから見ましたところ、なんと大善寺の先生が亡くなられたと言う通知なんです。
それがあのう久留米の信愛会、私はよく知りませんけども教会行った事もない、向こうも知られないぐらいでしょう。けれどもやはり久留米の出社関係というので、ご案内そのあれ通知を受けた訳でしょうがね。そしてあのうまぁだ私どんぐらいでしょうけど若い。城島教会の出社なんです。それがあのう御大祭を仕えられよって、そして御大祭を仕え終わって、霊神様のご挨拶をされて、三十分後に亡くなっておられる。あっと言う間だったらしいですね。人間っていうものは本当にですね。
もういつどういう事があるやら分らんですからね。もう本当ひと言ひと言を大事にしていきゃらなければいけないと思いますよ。もうよかよかもう明日って言った様な事ではいけない。やっぱりその日その日をその事その事を、大事にしていかなければならない。それが例えば実意丁寧神信心であると同時に、それがですね信心の手掛かりになっていくんですよ次の。その事も思ったんですけど。
18日がなんちゅうですか仮の式が明日なんです。から本葬が23日なんです。やっぱ関わり合いのある事ですよ。全然知らないのだけれども何かその分らなければならん事を、私自身にも神様がお前だって何時どういう事になるか分らんぞと、言うて下さった気がするんですよ。ですから本当にその事その事を大事にしなければならないね。それ私それから4時に下がらして頂いて。
あのう食堂に下がっとりましたら、私の北京時代の友人の方が尋ねて来ましてから、又その方もそれこそ大事にさして貰うて帰って貰ったんですけども。もう考えて見るとですね。そのうまぁ言うならまぁざぁっとでもいいと言う様な事も沢山あるんですね。もうまぁあしらっとけばいいという場合もあるんです。けれどもやっぱそれじゃいけん。その事その事をです。
やはりあのういわゆる実意丁寧に、いわゆる何事も信心になれよというその心持ちを、置かずに信心を進めて行く所からですね、悔いのない自立と言う事にもなって来るでしょうし、又は信心の手掛かりもそこから出来る様な事すらなる。そういう頂き方をする所からです。もう事の全てがです。私にもう特設関連のある事を、感じらなければおられないというな働きがある。例えばねそのまぁ酔っ払いのその場合でもですよね。
朝の御理解の中心の私が、やっぱその言葉を使って申しました事をずばりここで言うですからね。同時になら今そのお葬式の通知を受けたでもですよ。やはり私には関係はないけれども関係が大有り。神様の目からご覧になると。何かそこに私に教えて下さる事を感じるのです。ですから一言一言がですやはり大事にされて行く。それが私「実意丁寧神信心だ、何事にも信心になれよ」とは、そういう事だと思うですね。
どうぞ。